分けて頂くもの
- Fumiko MIKUNI HAMANO 三国富美子 浜野富美子
- 2021年6月14日
- 読了時間: 3分
更新日:2021年7月7日

6月の1回目のレッスンが終わった。
年甲斐もなく、先生の誠実で適切な道案内を辿っていたが、
自分で決めなさい、と言われてから二つ目のエチュードが終わった。
前回はクロイツエルから、今回はシヴォリ。
昨日は二週間後のレッスンに持っていくためにフーバイを選んだ。
日本でよくあるパターンとしてはカイザー、クロイツエル、フィオリロ、ドント、ローデ、パガニーニ、そして運指テクニックにシェフシック、シェラディック、、、本を丸ごと用いるなど暗黙の常識と順序がある。
また、日本の編集された教則本はよくまとめられているものの、曲に対してエチュードが少ないように思う。
弾けるようになるためには様々な角度から様々な問題を解決していく必要があり、
上達を感じれるかどうかは順序や常識だけでは否だ。
左、右、広げる、狭める、跳ぶ、スライドする、形を変える、重音、弓の運び方、角度、と
何が弾けたから偉い、これが弾けないとダメ、ということではなく何を学ぶかである。
他にヴィ二アフスキ、ダンクラ、マザス、ギャブニエス、ヴュータン、シヴォリ、シュポア、アラール、思いつくだけでも山ほど。
難しいと感じるもの、簡単に感じるもの、それぞれに理由がある。
手の大きさ、腕の長さ、柔軟さ、力加減の個人差もある。
同じようなアプローチもあれば飛び抜けて良いエチュードもある。
それらを通して先人の様々な工夫をヒントにしながら、
自分自身は頭を使って学んでいけば良い。
1700年代終わりから弾くために必要な技術はほぼ出来上がっており、
300年経った今でも栄養をくれるのはエチュードの素晴らしさだ。
そしてエチュードは苦痛のためではなく、体の使い方を学ぶものであり
苦行のように精神を追い込むものになってしまってはならない。
選び方は慎重に行うと良いが適当に選ぶと後々辛さだけが残る。
そして弾けたつもりになっていたことほど危険なものはないのである。
先生はただ与えるだけで、神業を教えてくれるがそこから先の応用は自分で考えないとマルはくれない。
導きを知らなければ私はエチュードは義務、そして達成感のみで満足していたに違いない。
名演奏家と共に作られた長い歴史の伝授は尊い。
1%だが90%だが知らぬが、努力は必要で
いらない、なんていかなる理屈があってもそんなことは言うものじゃない。
素直に毎日少しづつ。
努力と苦行は違う。
ひと月の疲労で眠りこけること半日後、ふらっと街に出る。
ヴェルサイユ市庁の掲示板にコンサートのチラシが貼ってあり
近所の教会でフォーレのコンサートがあると知った。
オルガン、ハープ、ビオラ6本、チェロ4本、コントラバス1本、ティンパニ、バイオリン1本、ホルン2本
合唱の人々、合唱からソリスト。
光の中にいるかのような優しい時間であった。
聖霊に満ちた感動はもちろんのこと、私は西洋文化を分けてもらっている、そう思った。
最近写真家のニュースを読んだ。
大自然に立ち向かい、感動の瞬間を得られるのは10年に一度体験できるかどうか、と。
西洋文化を習得するのと全く同じだと思った。
インターネットの普及があっても私はアジア人。
9844kmも離れているのだから、当然である。
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